Taking Off ~18歳の旅立ち~

「人は二度生まれる。

一度目は存在する為に。

二度目は生きる為に。」

ジャン・ジャック・ルソー この言葉を本で読んだのは、中学生の時だった。

その時は、その言葉の意味も分からず、 “人間にとって二度目の誕生とは、どういう事なのだろう”と 稚い頭であれこれ思い巡らすだけだった。

17歳。

周りが受験に向けて慌ただしくなる頃、 私は問題集を広げながら、いつも別の事を考えていた。

「自分が一生貫ける“何か”、一生を懸けるだけの価値ある“何か” 自分だからこそできる“何か”、自分が自分であるための“何か”、そんな“何か”が見出せたなら、今すぐにでも、その一点に流れ出せるのに!」と。

いつだって、“何か”が欲しくてたまらなかった。

いつだって、“何か”がしたくてたまらなかった。

だけど、その“何か”は、輪郭さえ見せてはくれず、 私はいつも狂おしいほどのもどかしいさに急かされながら、必死に答えを探し求めていたのだ。

当時、私と父親の関係は、もはや修復不可能なまでに悪化し、 「父親を殺すか、自分を殺すか」 そこまで追いつめられていた。

「この父親を超えない限り、私の道は開けない。 私は“私”として、生きることさえ出来ない」

その思いがピークに達した時、 私は《家出》を考え、《自活》への道を模索し始めた。

もちろん大学にも行きたかったけれど、 それ以上に、私は自分の自我を守る方が大事だったのだ。

二月末、願書を抱えて郵便局に出掛けたものの、 結局、願書を出さないまま家に帰ってきて、「受験はしない」と母親に告げた。

そして、進路の決まらぬまま卒業式に出席し、 卒業式の三日後、親しくしていた伯母の家に出掛けた。

その伯母の口から出た言葉が、

「Marieちゃん、あんた“看護婦”になりいよ」――。

『看護婦』!

幼い頃から病院通いが当たり前だった私の意識に、 その職業が全く無い訳ではなかった。

だけど、『看護婦』というものは、心も身体も頑丈で、 厳しい肉体労働に耐えうる者にこそ敵った仕事であり、 私のように“風が吹いただけで熱が出る”ような細っこい人間には、 絶対無縁の仕事と思い込んでいたのである。

私は伯母の言葉に半ば茫然、半ば玲瓏としながら家路につき、 その間中ずっと、唯一つの事だけを考えていた。

『“看護婦”の免許さえとれば、少なくとも一生食うには困らんだろう』

私は美容師である母の姿を間近で見て育ったせいか、 女も一生の仕事を持つのは当たり前だし、これからの時代は資格と技術こそ身を救うという事を肌で実感していた。

大学を出たからって、一生の保証があるわけではない。

会社勤めしたって、会社が潰れればそれでパアだ。

でも看護婦は違う。看護婦なら、何処ででも働ける。

たとえ一つが駄目になっても、求人は腐るほどある。

たとえこの先、戦争になっても、恐慌が来ても、 食いっぱぐれることは絶対に無いだろう、と。

そんな風に家に帰りついた私は、早速、電話帳をめくって、 「看護助手」を募集している総合病院を片っ端から探し始めた。

職安も、求人誌も通さず、 ただ思い付きと勢いだけで電話をかけまくった、若さゆえの無謀さ。

断りに断られた末、行き着いたのが、某キリスト教系の総合病院だったのである。

「……あの、そちらの病院では、看護助手を募集しておられますか?」

「はい、してますよ。あなたは、おいくつですか?」

「あの、高校卒業したばかりで、十八なんですけど」

「ああ、かまいませんよ。良ければ、面接に来て下さい」

その場で面接の日取りが決まり、あっという間に採用が決まった。

研修開始は3月24日(確か、そうでした)。

卒業してまだひと月も経たないうちに、もう社会人デビューとは!

自分でも、この急転直下に不安と戸惑いを感じずにいなかったが、 その先にある自由と自活を思うと、もう鳥よりも天高く舞い!

病院の敷地内にある寮の一室 ――これがまた昭和初期に建てられた木造の旧病舎で、その一室というのが元病室の六畳一間!。

狭い一室には、やたら頑丈なパイプベッド(もちろん患者用の)が ど~んと置かれ、窓枠はがたがた、壁には亀裂と、 とんでもない部屋だったんだよね。

だけど、それさえも修理するのが楽しかった。

私は、ダンボール箱二つに本や衣類や洗面道具をつめ、 出発の日を待った。

そして3月23日の夜、お迎えに来た赤帽の軽トラックに、ダンボール箱二つと、母が買ってくれたスチール製の収納ボックス一つを ――結局、これが、親が私に買ってくれた最後の品になったのだけど――を載せると、呆然と見送る両親を尻目に、「それじゃ」の一言を残して、トラックの助手席に飛び乗ったのだった。

『文句があるなら、出て行け』 『誰に飯食わしてもろてる思うんや』 が、親の口癖だったけど、まさか本当に家を出て行くとは夢にも思わなかったのだろう。

母だけは家の外に出て、トラックを見送ってくれたけど、 その夜を境に、何もかも変わってしまった。

良い意味でも、悪い意味でも、 私はもう親に養われる雛ではなくなったのだ。

夜の町を赤帽のトラックで走りながら、 私は「ざまあみろ」と思ったり、「やったるでい」と発奮したり……

別離の悲しみも、孤独の淋しさも、 心を曇らせるようなものは何一つ感じなかった。

ただ明日――自分の手で掴み取った、まだ見ぬ未来と成功だけを信じて、 意気揚々と窓の外を流れ去る街灯の明かりを見つめていたのである

初稿:99/04/02 メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より 

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