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天職 ~「仕事」とは何なのか~

1999年5月27日

敬虔なクリスチャンだったマザー・テレサの母親は、最愛の娘に、いつもこう言って聞かせたそうだ。

「お前の望みを知ることではなく、神様のお望みを知ることです」

『神様のお望み』――それこそ「天職」という名で表されるものかもしれない。

「天職」というと、天賦の才みたいに、何か特別な、卓抜した才気や技能のように思われるかもしれないが、なんてことはない。

《 『自我』と『適性』と『運』が一致した仕事 》 だと私は思ってる。

そして、それは誰にも一つずつ与えられているものであり、心底、探し求める気持があれば、必ず巡り合えるのだ。

ここに一人のおじいちゃんがいる。

彼はもうそこそこの年齢だし、糖尿病性腎不全で週に三度の透析療法を受けているにもかかわらず、工事現場で働いている。

医療費も生活費も、ちゃんと国から補助金が出て、全てを保障されているにもかかわらず、病身に鞭打って、三トントラックを乗り回している。

足の指は、硬い作業靴のせいでボロボロになり、あちこち皮膚がただれているにもかかわらず、決して仕事に行くことを止めない。

何も、上司に脅されているから行くのではない。

自分が行きたいから、行くのである。

「**さん、たまには仕事休んだ方が良いよ。せめて足の指が治るまでは……」

看護婦サイドがどんなに言っても、「うん、うん」と生返事するだけで、結局、仕事に行ってしまう。

そして何かといえば、

「若い奴等には任せられん。あいつらは下手クソじゃ」

「わしは運転技術には自信もっとる。わしの運転は最高じゃ」

「そらもう渋滞やろうが、なんやろうが、ぶっ飛ばすでぇ。わしは決して時間に遅れたことが無い。仕事で手ェ抜いたこともないしなあ」

と誇らしげに喋る。

みんな処置しながら、半分聞き流しているにもかかわらず 、自分の仕事ついて延々と語り続けるのだ。

あの顔、あの語りに触れると、「仕事に行くな」という言葉が非常に空しいものに感じられる。

「もし、あの人が仕事に行けなくなったら、いっぺんで悪くなるだろうね」

と主任さんが言っていた。

おじいちゃんにとって、仕事は生き甲斐であり、悦びであり、自信であり、誇りであり、命の糧である。まさに『自分そのもの』だ。

これを『天職』と呼ばずして、何と呼ぶ。

おじいちゃんは、誰に称えられずとも、自分の領分で自分の責任を全うし、3Kとみなが嫌う工事現場で、やり甲斐や悦びを見出し、その全てを生きる糧としている。

何が楽しいのか、我々には想像もつかないけど、『何か』あるんでしょうね

このおじいちゃんにしか分からない、やり甲斐が――

時には辛いこともあるだろう。止めたい時もあるだろう。

それでも、【仕事が好きだから】、しんどい身体に鞭打って、現場に出掛けて行く。

それが自分であることの証、生きることの証だから。

では、『仕事』とはいったい何なのか――。

HPでも書いているけど、人間の「仕事」には三つある。

Labor = 苦役

Job = 生業、職業

Work = 自己実現のための仕事

「Labor=苦役」(医学用語では、”陣痛”の意味も有る)とは、まさに鎖で足を繋がれた奴隷奉公そのもので、どこまでいっても「苦痛」でしかない。

たとえ一流企業の高給取であっても、本人がその労働に何の悦びも生き甲斐も感じず、ひたすら自分の生産物に、自分の労力や精神力を吸い取られるだけなら、奴隷奉公と同じである。彼は真の意味で何も生み出さず、ひたすら自分というものを消耗しているだけだからである。

大方の労働は、「Job=生業、職業」に属するのではないだろうか。

(これで良いのか?)と疑問を抱きつつも、家族の為、自分の為に、毎日、真面目に会社に勤めるお父さん。

ぶーたら文句言いながらも、そこそこに仕事をこなし、アフター5も楽しむOLさん。

(小渕は何をやっとるんだ)と怒りに震えながらも 、商売を楽しみ、町内で己の地位を確立している魚屋の源さん。

日々の生活を支える労働。人間として自立する為の労働。

いや~な事もあるけれど、大人として、社会人として、真面目に取り組む労働。

『大いなる悦び』なんぞなくても、それによって、日々の糧を得、社会の一員として自分のポジションを確立し、家族の為、社会の為に貢献しているなら、それも立派なJobである。

『Job』というのは、旧約聖書に登場する敬虔な信者ヨブの名に由来する。

ヨブは、「ありとあらゆる不幸をかぶれば、敬虔な信徒も信仰心を手放すに違いない」という悪魔の企みによって、壮絶な苦難の中に置かれる。

するとヨブは、そのあまりの不幸ゆえに、

(善い事ばかりを心がけ、こんなに神様に尽くしてきたのに、ど~してワシだけ、こんな不幸な目に合わねばならんのだ!!)

と、ついつい神様を恨んでしまう。

だが、彼は、友人から、

「あなたは自分が正しいのに、神がそれを少しも認めないで、不幸に突き落としたというのですのね。それは思い上がった考えですよ。あなたは自分の少しばかりの正しさを鼻にかけ、神からの恵みを期待し、それが得られないといって腹を立てている。そんな思い上がった心で神に訴えたところで、神がお応えになるわけがないでしょう」

といわれ改心する。

そして、あらゆる苦難に耐え抜き、ついに悪魔の企みを退けて、真の幸福を得るのである。

ヨブは、「堅忍」「忍苦」の典型とされているが、「Job」というものも、それに通じるものがあるかもしれない。

――人がこんなに一生懸命、働いてやってるのに――

そう思った瞬間、人は労働の奴隷に成り下がる。

確かに、職場では不当な扱い、不当な評価、不条理な事が数限りなく存在するが、そんなものにイチイチ腹を立て、来る日も来る日も、糞づまりの活火山みたいに、恨みつらみをつのらせながら働いていたって、面白くもなんともないだろう。

この世に100%の職場など無いのだから、日々の仕事に、自分なりにやり甲斐や喜びを見出し、楽しむのが賢明である。

またそうでなければ、「Job」は続かない。

なぜなら「Job」とは、生活の為の仕事、職業であり、いかなる苦難もいとわない「Work=自己実現のための仕事」とはまた違うからである。

「Work」――自己実現のための仕事――すなわち「天職」。

それを見つけるのは、なかなかた易い事ではない……ようだ。人の話を聞く限りはね……。

それは人に与えられるものでもなければ、教えられるものでもない。

求人誌とにらめっこしてたって、永遠に見つかりはしないだろう。

なぜなら、「天職」とは、『自我』と『適性』と『運』が一致した仕事であり、そのどれが欠けても、「天職」とはなり得ないからである。

天職を得るには、まず「自我」と「適性」を知る必要がある。

「自我」とは、己の望み、方向性、信念、理想、情熱……といった、魂の”質”と”力”のことである。

これが分からなければ、何をも選べないし、何処へも進めない。

いうなれば、羅針盤と推進装置みたいなもので、その方向性と力量を知る事から、自分が何処にある、どんな島を目指すかが必然的に見えてくるのである。

たとえば、私。

子供の頃から、「一生の仕事」を持ちたいと願っていた。

「自分だからこそ出来る仕事」「一生をかける価値のある仕事」に就きたいと願っていた。

ではそれを実現してくれるのはどんな仕事か……となると、必然的に「プロの仕事」「特殊技術の専門職」となってくる。

そうなると自ずと選択肢が絞られてくる。

自分の信念が固まっておれば、迷ってるヒマなど無い。

他人がどうあれ、世間がどうあれ、「その一つ」を選び取る勇気と決意がわいてくる。

なぜなら、人生とは自己実現の為に存在するのであり、「人生を大切にする」ということは、「自分に合った生き方をする」ことだからだ。

次に、知らねばならないのが「適性」。

自分が性格的に、技術的に、どういう仕事に向いているか、という判断である。

近頃は、いろんなテストがあったりするが、

最終的には「己を知る事」でしか判断がつかない。

若いうちに、いろんな事に挑戦し、その度、自分自身に

(楽しく出来たか)

(どんな不満を感じたか)

(好きか、嫌いか)

といったことを、絶えず問いかける事が肝心だろう。

私は子供の頃、いろんな伝記を読みあさったけれど、わけても深い感銘を受けたのが、ベートーヴェンとエジソンとナイチンゲールとヘレン・ケラーだった。

大学で分子生物学科を選び、某酒造メーカーのバイオ研究所で働いていた姉が、野口英世と湯川秀樹に感動し、キュリー夫人を崇拝していたことを思うと、どんな本を読み、誰に共感するかでも、適性の違いが現れるような気がする。

また私は幼稚園の時から、人に命令されたり、束縛されたりするのが大嫌いだった。「こうしなさい」「あれをしてはならない」という言い付けほど、うっとうしいものはなかった。

ゆえに、私は絶対宮仕えは無理だと思ったし、毎日同じ事を繰り返すような「単調な仕事」も続かないと思った。

またナイチンゲールやヘレン・ケラーみたいに、自分の仕事が目に見えて社会に還元しなければ、やり甲斐を感じないし、「誰にでもできそうな仕事」では自尊心が満たされないことも知っていた。

それに、学生時代、いろんなアルバイトをする中で、(私は人間相手の仕事に向いてるな)と思う機会がいくつもあった。

そうなると、自ずと適性が見えてくる。

適性が見えなくても、『自分に合わない仕事』というのが分かってくる。

“適性を知る”ということは、自分がどんなタイプの船であるかを知る事だ。

激流を制すカヌーなのか。

風と共に走る帆船なのか。

強力なプロペラをもつ大型船なのか。

それによって、自分の目指す島への行き方が分かる。

具体的な手段と方策が立つ。

あるいは一つの理想を断念し、自分の船に見合う、新しい目標を見出せるかもしれない。

適性を知らずして、自我の実現は有り得ない。

なぜなら、目標と手段は、相互に適うものでなければならないからである。

そして、この『適性』と『自我』が一致して、はじめて、旅が苦役ではなくなる。

どんな荒海も、希望と信念をもって渡っていけるようになるのだ。

今、西武の松坂君が大人気だけど、彼のコメントで一番印象に残ったのが、

「どんな手強い敵でも、どんな危機に直面しても、マウンドに上がるのを怖いと思ったことは一度もありません」

その言葉を聞いて、この子は『天性の投手』だな、と思った。

彼の適性は、その体格や運動神経といったものにあるのではない。

恐怖も感じないほど、マウンドと一体化できるところにある。

(腹が減ったら食う)(疲れたら寝る)と同じ感覚で、球を投げられる点にある。

だから習得した技術を120%に生かせるし、危機さえも楽しみながら乗り切れるのではないだろうか。

ちなみに私は昔、いちびって絵画教室なるものに通ったことがある。

デッサンの基礎から習ったが、最初の一枚を描き上る前から、身も心も疲れ果ててしまった
(笑)(笑)(笑)。

基礎講座の最終回、先生は素晴らしい卒業生の作品を見せて、こう言った。

「こうなるまでに、この人は何千枚、何万枚というデッサンを描いてきたのです」

それを聞いて、私には絵を習うのは無理だと思った。

原稿なら、何千枚でも、何万枚でも書けるけど、デッサンは十枚でも持ちそうにないからだ。

絵描きの素質のある人は、その何千枚、何万枚を、まるでメシでも食うように描き続けることができるのだ。

最初の一枚がどんなに下手クソで、深い自己嫌悪に陥っても、練達を目指して、二枚目、三枚目に立ち向かうことができるのだ。

『得手に帆を上げて』とは、私の好きな本田宗一郎の言葉だが、ありとあらゆる苦痛をものともせぬほど『好き』というのも立派な適性と思う。

物事を為すのに一番大切な適性とは、技能や性質ではなく、『とにもかくにも好き』という気持ちなのかもしれない。

最後に『運』――これも重要な要素である。

ここでいう運とは、「幸運」のことではない。

『仕組まれた道筋』『必然的な巡り合わせ』……とでもいおうか。

一つの道を歩いていると、その仕事を実現あるいは完成する為に、お膳立てされていたかのような巡り合いを果たすことがある。

たとえばアムロがコムロに出会ったように、ヴィヴィアン・リーがローレンス・オリヴィエを追ってハリウッドに現れたように、ダーウィンがガラパゴス諸島に漂着したように――。

私だって、十八の時、ろくでもない職場に行き、ろくでもない看護婦ばかり目にしていたら、自分も看護婦になろうなどと思いもしなかっただろう。

そして、ろくでもない学校に行き、ろくでもない教師に出会い、ろくでもない教育を受けていたら、今の私は無かったと思う。

日本一と誇れるような学校に行き、一生の恩義を感じるような教師に出会い、最高の教育を受けてきたから、どんな境遇(職場)にあっても、自信を持って自分の看護が行えるのだ。

→ 学校のレベルって偏差値じゃないよ。教師と教育環境の良し悪しです。

私だって、受験前に、人から「この学校が良いよ」と教えられたわけじゃない。

いろんな資料を見るうち、

『”病む人の気持を”をモットーに、美しいガーデン・ホスピタルを目指します』というコピーに、強く心を引かれたからだ。

また、私には「終末医療」に携わりたい、という強い希望があり、それを叶えてくれるのは、「九州がんセンター附属看護学校」しかない、という確信があった。……そして私の確信は見事に的中したのである。

私は21歳の時、高校三年生の娘たちに混じって、看護学校を受験した。

居並ぶ現役ライバルを蹴落して 、合格を勝ち取った。

後から先生に聞いた話だが、合否会議で、

「看護経験者(看護助手やってたのは私だけだったから)を、高卒の生徒と同じ教室で学ばせるのは問題が有るんじゃないか」

という話が持ち上がっていたそうだ。

にもかかわらず入学できたのだから、やっぱり『運』があったのだろう。

おまけに私は人が羨むほどスタッフに恵まれてきた。

よく「イヤな上司がいて……」という話を耳にするが、私の場合、そういう上司に一度として当たった事が無い。

なんだか知らないけど、いつも良い人に当たるのだ。

『上司は喜び、私は伸びる』というオイシイ関係のもと、思いっきり仕事させてもらえたような気がする。

(時には手を焼かせもしたが)

職場の人も、みんな好きだし、やっぱ自分が仕事場に顔を出した時、皆に「Marieちゃ~ん」と手を振ってもらえると、嬉しいよね。

これを『運』と呼ばずして、何と呼ぶ。

いろんな場面を振り返ると、良い巡り合わせの連続だ。

「この仕事をする為に、この出会いがあった」というか、

「この出会いがあったから、この仕事ができた」というか……。

考えるだに不思議である。

――あるいは、私自身が、すべての出会いを良い方に作り替えてきたのかもしれないが――

「Work=天職」を果たしている人は、みな、そうした『運』に支えられている。

支えられているのが分かるからこそ、いっそう、自分の仕事が愛しく、貴いものに思えるのかもしれない。

そして、そういう『運』は、「これを成し遂げたい」という強い信念の元に引き寄せられる。

天恵などではない。

自身が強力な磁石となって呼び寄せるのだ。

なぜなら、自分が求めるように、向こうも自分を求めているからである。

(イヤ、イヤ)と思っていると、イヤな奴がやってきて、イヤな事ばかり起こる。

年中不満を並べている人は、何処へ行っても、何をやっても、文句を言うだろう。

中途半端に求めていると、中途半端なものしか与えられない。

「運命の出会い」も「運命の発見」も、ぼんやり待っている人の所には、絶対来ないのだ。

『自我』と『適性』と『運』が一致した仕事――

それは自分を知り、自分の行く先を定め、全身全霊でその完成を求めた時、不思議な巡り合わせによって必ず与えられる。

「Work」は、その完成を求め、全力で仕える人間を決して裏切らないし、見捨てない。人生のあらゆる場面で、自分を支えてくれる。

そして自分という人間にかけがえのない価値を与えてくれる。

人間にとって、最高の悦びが『愛』なら、生きることの最高の価値は、『自分に与えられたWorkに生涯仕えること』

と思わずにいない。

自分のWorkを知ることは、自分がこの世に生まれてきたことの意味を知ることなのだ。

じゃあ、「Work」の無い人間には価値が無いのか?!

「Work」ってやっぱり特別なものじゃないか?!

――って声が聞こえてきそうだけど、そうじゃない。

人間には、LaborをJobに、JobをWorkに変えていく力が有る。

たとえ成り行きや、やむにやまれぬ事情から、不本意な境遇に陥ったとしても、それを転じて最高のものに作りかえていく知恵と気概があれば、どんなLaborもWorkへと昇華する。

要は、境遇に飲まれないことだ。

私は時々、ピラミッド建造に従事した幾万人の労働者のことを思うのだが、あれも「奴隷」と「職人」の二種類に分かれていたような気がする。

炎天下でこき使われ、バカでかい石を延々と積み上げねばならない条件は、みな同じだ。

だが、これをひたすら「苦役」と感じ、我が身を呪って奴隷のまま死んでいくか、

(どうしたら、もっと楽に石が運べるかな)

(俺のチームは、他のチームより運ぶのが早いぞ。一致団結だ!)

と、些細な事にもやり甲斐や楽しみを見つけ、奴隷の鎖に繋がれながらも、人間として働き、人間として死んでいくかは、まさに『その人次第』である。

上に挙げたおじいちゃんも、端から見れば同じ事の繰り返し、きつい、汚い、キケンな重労働だけど、我々には計り知れないような楽しみを見出しているに違いない。

「重い資材を積みながらも、ヘアピンカーブを見事に抜けるハンドルさばき」、
「都会の大渋滞をものともせず、早く確実に資材を届ける頼もしさ」、

「手際よく資材と資材を組み合わせ、ついでに隣の人の分までやってのける

腕の良さ」――、

(ああ……わしって、最高の職人やなあ)

そんな自負に酔いながら、仕事を全うする姿が目に浮かぶ。

クーラーのきいたオフィスで涼しい顔をしていても、(おもろないな)、(けったくそ悪い)と思いながら働いてる会社員に比べれば、何倍もシアワセだ。

少なくとも、彼は『楽しんでいる』のだから。

おじいちゃんが、どういう経緯で、しんどい建設現場の仕事を選んだのかは知らないが、こういう人は、事務員をやっても、営業マンをやっても、プログラマーをやっても、何からでも楽しみを見出し、充足を得るものだ。

無から有を生み、暗を明となす知恵を備えているからである。

そして、おじいちゃんは、皆と同じように透析療法を受けているが、文句一つ言ったことが無い。

いつも「感謝、感謝」である。

「仕事を楽しめる人は、人生も豊かに過ごせる」という見本のような人である。

仕事というものは創意工夫である。

決められた業務を、決められた通りにやってるうちは、「消耗」でしかない。

ヤッカイな資料作りも、ちょいと頭を働かせれば、何通りもの方法が浮かぶ。

それを「面倒」ととるか、「面白い」と感じるかは、その人の気構えひとつである。

創意工夫する限り、単調な仕事というものは絶対に有り得ない。

コピーをとるにしたって、ただ紙をのせて、ボタンを押すだけでなく、

『どうすればもっと早く処理できるか』

『どうすればもっとキレイにコピーできるか』、

そんなことをいつも考えながらやれば、同じ作業でもずいぶん中身が違ってくる。

そのうちダルいコピー取りも面白くなってきて、

『ああ、私って、コピー取りの天才』と酔えるようになるはずだ。

この世の労働の99%は、面倒で、大変で、しんどくて、うっとうしいものである。

ただ『やる』だけなら、人間を限りなく消耗させるばかりだ。

創意工夫だけが、人間を苦役から解放する。

「Labor」を「Work」へと昇華するのである。

誰でも、働くからには『意味』が欲しいし、自分の『価値』を実感したいものだ。

それが得られないから、何をやっても面白くないし、疲れや空しさばかりがつのっていくのだろう。

だが、この世の何処を探しても、100%恵まれた条件で働いている人間など無い。

たとえ社長に上り詰めても、社長には社長の苦労があるし、憧れの部署に行ったら行ったで、新たな不満が噴出してくるものである。

人間は『外』に意味や価値を求める限り、永遠に充たされることはない。

意味や価値というものは、人や組織から与えられるものではなく、自分自身が見出すものだからだ。

『全て無意味』と思えば、何もかもが意味を無くす。

意味の有るものまで潰えてしまう。

逆に、無意味と思うような事でも、自分自身が意味を作れば、その物自体が変わるのだ。

何でもないコピー機が、愛しの複写マシンに変わるように。

仕事がもたらす悦びは、何ものにも勝る。

仕事を通じて、自分のもつ力を人や社会に還元できた時、人ははじめて生き甲斐を知り、自分の価値を知る。

そして、自分の仕事(望み)が、社会の必要(天の望み)であり、自分を生かす事が、他人(組織)を生かす事に通じた時、それは『苦役』を超え、『天職』となるのではないだろうか。

「自分の望みを知ることではなく、神様のお望みを知ることです」

――探せば、いつか分かる。

――探し続ければ、きっと。

私が、看護婦を自分の「Work」と感じたのは、十八の時だった。

仕事を始めて一週間が経った頃、配膳車を引っ張り、患者さん一人一人に食事のトレイを渡しながら、ふっと、

(……ああ、これって私の天職だな)と実感したのだ。

理屈ではなく、肌で。

私は求めていた。子供の頃から、ずっと、唯一つの事だけを。

その念が、受験前の迷いを導き、伯母の一言を導き、病院という職場に私を導いた。

そして患者さんの笑顔を見た時、私は自分が抱いていた全ての迷い、全ての謎、全ての希求の答えを知ったのだ。

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