「失楽園」といい、「タイタニック」といい、 ああいう命懸けのラブストーリーがもてはやされるのは、結局のところ、『本物の恋愛』を経験した人間など、きわめて少ないからではないかと思う。
実際に体験したら、自分の体験の方が重過ぎて、 架空の話など他愛ないものに感じるし、わざわざ映画や小説にカタルシスを求めなくても、 その日その日の出来事が心の垢を落としてくれるからだ。
……あるいは「実行する勇気が無い」かね……。
命懸けるほど人を愛したら、まず人並みな現実生活とはオサラバせねばならない。
酒じゃ、クルマじゃ、海外旅行じゃ、などと浮かれてはおれなくなる。
場合によっては、自分の現実を支える一切のものを犠牲にする覚悟も要るだろう。
腹一杯メシは食いたいわ、命懸けの恋愛はしたいわ―― そんな贅沢は絶対とおらない。
腹一杯食って、まるまる太った人間のところに、どうして命懸けの恋が訪れる?
命懸けの恋をしている人間に、カルチェや松坂牛を与えて、何の意味がある?
人間、身体で生きるか、心で生きるか、二つに一つだ。
どちらかをとれば、どちらかを失うのである。
究極を求めるならば。
人を『好き』になるのは、た易いことだ。
が、人を『恋し』『恋される』となると、技術が要る。
『愛し』『愛される』となると、さらに格別な能力が要求される。
オスがメスを求め、メスがオスを求めるのは本能だが、 真の恋には、心響かせるみずみずしい『感性』と、心から相手を愛しく想う『真心』、 すべてを超えてゆく『情熱』が必要だ。
恋は誰に与えられるものでも、そこらに転がっているものでもない。
恋できないのは、恋するにふさわしい相手がいないからではなく、恋するにふさわしい感性と情熱が欠如しているからだ。
生半可な恋には、生半可な悦びしか得られない。
そして、それに気付く頃には、たいていの人生は終わってしまうのだ。
【 僕は、愛というものは、もっともっと永遠の、重々しい、 神秘的なものと信じたいのだ。
それは人生の意味であり、現実を支えるロマンの世界のものなのだ】
初稿: 99/05/16 メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より


