現代の『罪と罰』 ~ドストエフスキーの名作より~

ドストエフスキーの不朽の名作 『罪と罰』。

私がこの作品を本当の意味で“読める”ようになったのは、ニーチェや聖書を解せるようになってからだ。この作品を味わうには、まずキリスト教精神を知らねばならないし、《神無き時代のニヒリズム》を理解せねば、その本質に近づくこともできない。

彼らの世界(作品の登場人物、あるいはドストエフスキーの生きた時代)の「キリスト」を知らずして、この作品を“読んだ”とはいえないのである。

かといって、ガチガチのお堅い話にすると、一部の読者にしか通じない内容になってしまうので、“誰一人、《罪と罰》なんか読んだこと無い”ということを前提に、書き進めていこうと思います。

『罪と罰』の物語

貧しいが、非常に鋭敏な頭脳と感性をもつ大学生のラスコーリニコフは、『一つの悪事は、百の善行によって償われる』という理論の元、悪どい高利貸の老婆の殺害を計画します。

彼にとって、あこぎな金貸しの老婆など害虫も同然、ならば老婆のもつ金を、貧しい人々の為に役立てた方が有意義ではないか――そして、ナポレオンやニュートンといった、特殊な能力を持った“選ばれた人間”は、社会の規範や法を乗り越え、『独自の正義』を行使する権利を有している――というのが彼の考えだったのです。

言い換えれば、ナポレオンのように秀でた能力をもつ人間は、その理想や正義を実現する為に、法を超え、戦争を起こし、大量の人間を殺戮することさえ許される『特権』をもっており、それによって理想的な帝国が実現されるなら、彼の大量殺戮は『罪悪』でも何でもないというわけです。

ラスコーリニコフは、自らもまたそのような『特権』を有すると考え、老婆の殺害を決行するのです。

ところが、偶然居合わせた老婆の哀れな義妹リザヴェータをも殺害してしまったことから、激しい良心の呵責にさいなまれるようになります。

そんな彼の前に、酔いどれの元官吏マルメラードフが現れます。
このどうしようもない飲んだくれは、稼いだ金を全て酒代につぎこみ、家族を飢えさせているばかりか、愛娘のソーニャに身売りまでさせているような男でした。

哀れなソーニャの身の上を聞かされたラスコーリニコフは、彼女もまた自分と同じように、“超えてはならぬ一線を超えた”人間と認識し、(良心の痛みを感じるのは初めだけで、人間なんて、何にでも馴れてしまうものだ)と思うのでした。

そして、殺害を決行した後、激しい心の葛藤から、半病人のようになってしまったラスコーリニコフの前に、懐かしい母と妹が訪ねてきます。

父親を亡くした後、ラスコーリニコフ一人を頼みとし、深い愛と期待を抱き続ける母親と、家族を救う為に、愛してもいない気障な金持ちと婚約してしまった妹――。
二人の真摯な愛と犠牲は、逆にラスコーリニコフを苦しめ、追いつめます。

彼は、妹と一緒に訪ねてきた、高慢ちきな婚約者の前で、こう言い放ちます。

「僕は、母と妹と、哀れなソーニャを同席させた」

婚約者がどう言葉を取り繕うと、その婚約は“身売り”同然に他ならないからです。

金の力で娘の心をすっかり懐柔した気分でいた男は、婚約を破棄して、母娘の前から去っていきます。

やがてラスコーリニコフは、ソーニャに会わずにいられなくなり、彼女の部屋を訪ねます。彼女の部屋には、殺害した義妹リザヴェータから贈られた聖書が飾ってありました。

彼は彼女に『ラザロの復活』を読んでくれるよう求めます。

信心深いラザロが、死後四日目に、イエス・キリストの力によって蘇った話は、『神を見失った、どんな“死せる魂”も、イエスの愛によって生命を吹き返す』とうい教えをたとえたものでした。

ラスコーリニコフは、娼婦に落ちてなお神を信じ、心の清浄を保ち、家族に深い愛を抱き続けるソーニャに問いかけます。

「どうしてそんな汚らわしい、賤しいことと、それに正反対な神聖な心が同居していられるんだ?」

それはイエスの教えに基づく『罪の観念』と『愛』ゆえだと、ソーニャは答えます。

ラスコーリニコフは、もはやソーニャに全てを打ち明け、赦しを乞う以外、救いはないと悟り、彼女に自分が犯人であることを告白した後、警察に自首するのでした。

神とは何か

ここでいう【神】とは、いうなりゃ【絶対的真理】ってことです。未来永劫、変わることの無い、絶対的正義であり、法則です。

『価値観』や『常識』というものは、時代によって絶えず変化します。

たとえば、昔は茶パツといえば不良の代名詞だった。

でも今は一般的なお洒落として定着しています。

男の化粧も、眉そりも、一昔前なら気味悪がられてましたが、今では立派なお洒落として支持されています。

だけど『放火』『殺人』『窃盗』『詐欺』となると、大和の時代から罪悪とされてるし、未来永劫、許されることではありません。

もし、

“高額納税者は嫌いな奴を抹殺しても良い”

“上位成績者は、ドンジリの生徒を殴っても良い”

“社長は、役立たずの社員を自由に解雇して良い”

なんてことが認められたら、社会の秩序はぐちゃぐちゃになってしまいます。

“兄と妹は愛し合っていたらHしても良い”

“親は子供を躾るためなら好きなだけ殴って良い”

“困っている人がいても、赤の他人なら何もしなくて良い”

なんてことが認められたら、人間性はめちゃくちゃになってしまいます。

「これは良い」「これは悪い」――というルールがあるから、人間は自分の欲望を制御し、品性を高め、秩序を保つことができるのではないでしょうか。

では、その“ルール”となっているのは何か? 社会や人間の基軸となり、その方向性を定め、この世に規律と正義をもたらしているものは何なのか。

キリスト教社会では、神であり、イエス・キリストであり、聖書の教えがそれに当たります。神を信じ、神の意に従うとは、神=【絶対的真理】を尊重することであり、“自分”という、欲望に満ちた、迷える弱い人間を、理想的な、完全なる人間である“神様”に近づけようと努力することです。

ところが十九世紀に蔓延しはじめた「ニヒリズム」は、神を否定し、人間は自らの意志、自らの欲望に基づいて行動するべきだという新しい思想を打ち出しました。

言い換えれば、神=【絶対的真理】 なんてのは人間が作り出したものであり、実体の無い影に自らの心を添わせて生きるのは、不自然だというわけです。

(このあたりのことは、実際、キリスト教社会に生まれ育ってみなければ、 分からないと思います。クリスチャンの“信仰に基づく生活、人生”っていうのは、 まともな信仰をもたない日本人には絶対理解しがたいものですから……。)

また現代という物質文明と経済の時代においては、【精神の価値】など見えにくい。神様の言う通り生きてたら、一人ババをつかむ羽目になる……てなもんです。

確かに、それも一理ある。

だけど、人間が行動の規範を“自分”に求めるようになったら、いったいどうなってしまうでしょう。

たとえば、今、問題になってる「援助交際」。

あんなもん、ただの「売春」だといっても、本人たちは、“誰にも迷惑かけてないんだから、イイじゃん”て感じで、悪いとも何とも思ってない。

――確かに、その通り――。

あの娘たちが、どこのオヤジに身売りしようが、過って、妊娠して、将来メチャクチャになろうが、社会には何の損失も与えません。

だけど【誰にも迷惑かけてない】というのは大間違い。

もし彼女らが中絶するとなったら、まず医療者に迷惑かかるし、→ 大人の女性がきちんとした理由で中絶するのと違って、ややこしいんだよ(笑)

費用を負担する人間にも迷惑がかかる。

ホテルで殺害されたり、窃盗されたりしたら、警察にもホテル従業員にも迷惑がかかる。

将来を案じて自殺したとなったら、警察にも医療者にも近所の住人にも迷惑がかかる。

事件になって報道でもされたら、家族、親戚、学校関係者に迷惑がかかる。

援助交際止めましょうキャンペーンになったら、納税者や市職員に迷惑がかかる。

自分の知らない間に、ありとあらゆる人間に迷惑かけてんだよ。

――なぜか?

社会的にも経済的にも責任取れないくせに、責任以上の事をしてるからです。

事件になったり、妊娠したりしたら、ギャアギャア騒いで、周りのオトナにしがみつくくせにね。

『身売りしたけりゃ、何かトラブルになった時、きちんと自分で処理できる能力が身についてからやれ』

これがルールです。

それこそ『本物の娼婦』になって、傷ついても、騙されても、(これも商売のうち)って割り切れるようなプロになるかね。
→ そういう意味じゃ、彼女らは本物の娼婦より格が低いんだよ。

その覚悟もないくせに、『誰にも迷惑かけてないから』と好き勝手なことをしまくる。そんなことが「本人の自由」とまかり通るようになれば、銃を持つことも、ドラッグやることも、万引きすることも、無免許運転も、み~んなOKってことになってしまいますよね。

そうなりゃもうメチャクチャですよ。(もうなってるか)

昔は、Hすることだって、厳しい道徳観念があり、周囲の目がありました。

それがいつの間にやら、フリーセックス=進歩的とされ、全面解禁になってしまった。

そして責任能力の無いガキや、既婚の男女が、欲求本位でやりまくって、いろんな人に迷惑をかけるようになったのです。

昔、あれだけ厳しかったのは、『 H=ふしだら 』 ではなく、『きちんと責任のとれる男女が、確かな愛情と自覚をもってやる大人の行為ですよ』という考えがあったからではないでしょうか。

またそうした考えが無くなれば、みんな欲求本位に走り出して、大人も子供も、未婚も既婚も、グチャグチャになってしまうという現実が見えていたのかもしれません。

「誰にも迷惑かけてないから、イイじゃん」――

「愛し合ってるなら、イイじゃん」――

「何しようが、アタシの勝手じゃん」――

そう言いきってしまえば、すべてが許される。

そして一つが許されれば、どこまでも際限無く許されてしまう。

そのうち彼女らはこう言い出すでしょ。

「ぎゃあぎゃあ泣くガキ、ぶん殴って、何が悪いの。うちの教育方針じゃん。あんたらにゴチャゴチャ言われる筋合いないヨ」

人間というのは、欲望に惑いやすい、愚かな生き物です。

だからこそ、孫悟空の頭の輪みたいに、悪事を働けばキリキリと締め上げ、過ちを思い知らせる何かが必要なのです。

「自分自身に基づく」――これは非常に大切な考え方ではあるけれど、曲解すると、その果てに重大な落とし穴が待っている。

ラスコーリニコフみたいに、殺人さえも正当化する、ムチャクチャな理屈を生み出すのです。

ラスコーリニコフが失敗したのは、自分以外のものが見えなくなっちゃったからでしょ。

道も、道を示してくれるものも、何一つ見えなくなってしまった。
そして自分の想念に凝り固まって、挙句の果てに、自分には人殺しさえも許される『特権』があり、選ばれた人間だけが持ち得る超人的な力があると思い込んでしまった。
この盲目的で利己的な思い込みこそ、彼を破滅へと導いた悪魔だと思うのです。

もし、彼の母親や妹が、「なに馬鹿なこと考えてんだよ、おめえはよぅ」なんて叱ってくれるような人間だったら、彼もちょっとは変わってたかもしれません。ところが二人して、「お前は良い子だ。お前だけが頼りよ~」の大合唱、おまけに妹は兄を思って、身売り同然の婚約までしちゃう。

こんな愛なら、要らんでしょ。

→ いじけきった人間には、いかなる愛も重荷にすぎないからね

だからキレちゃった 。
愛の重圧に耐え兼ねて。

愛に恵まれた人間が『愛ゆえに暴走する』というのも、一つの真実。

話の中で、もっとも象徴的なのは、やはり「父親を亡くしている」という設定ですね。

父親=Fatherとは、すなわち「神」のこと。

Fatherを無くした彼が道に迷ったのは、当然の成り行きだったといえるかもしれません。

ドストエフスキーに関する本

本貧乏学生のラスコーリニコフは、『人間は凡人と非凡人とに分かれ、非凡人は既成道徳をも踏み越える権利を有する』『一つの些細な犯罪は、数千の善事で償われる』という理論のもとに、強欲な高利貸の老婆を殺害するが、偶然その場に居合わせた老婆の妹まで殺害したことから、罪の意識にさいなまれるようになる。
そんな時、信仰深く、心清らかな娼婦ソーニャに出会った彼の心に訪れた『復活の奇跡』とは……。

あまりにも、あまりにも有名な、ドストエフスキーの名作『罪と罰』。
その意味が分かるようになったのは、だいぶ大人になって、聖書を読んでからだ。
この作品の良さは、二言、三言で語り尽くせるものではない。
日本語訳に関しては、昭和26年に発行された、米川正夫氏によるものが群を抜いて優れている。
残念ながら今は廃刊となり、入手不可であるが、古めかしくも、格調高い表現は、まさに文学の王道と呼ぶにふさわしい。(苦手な人も多いかもしれないが)
米川訳が読めない新しい読者は本当に可哀想。
現代訳もいいのだろうけど……私はやっぱり、薫り高い米川訳が好きだ。

(注:この記事を書いた時、米川版は廃刊になっていましたが、2008年角川文庫より復刊されました)

【Amazon レビューより】
この作品を軽い気持ちで読まないで欲しい。
安易な解釈ばかりされているようで残念だが、この作品のテーマである「罪と罰」とは単に主人公ラスコーリニコフの犯罪の事を言っているのではなく、人間全体を大きく見渡したものだからである。
恐ろしく冷たい視線で書かれた物語で、ラストが必ずしもハッピーエンドではないと解ったとき、私は思わず戦慄した。
思想のために生きるという、人間だけが持つ矛盾。そしてその後に待っているもの・・・
この本を手に取り、読んだ人は幸いである。私は生きているうちにこの本を読めて心から良かったと思う。
蛇足だが、夏目漱石の「こころ」と合わせて読むことをお薦めする。

——-

私は初め、罪を犯したあとに罰があるものだ!と考えていました。
しかしこの本を読んで思ったのは、罰とは常に罪と一緒にいるのだ、ということでした。
吸い寄せられるように読んでしまいます。ぜひ一度この本を開いてみてください。

「謎とき」とは? / 精巧なからくり装置 / 666の秘密
パロディとダブル・イメージ
ペテルブルグは地獄の都市
ロジオン・ラスコーリニコフ=割崎英雄
「ノアの方舟」の行方
「罰」とは何か / ロシアの魔女 / 性の生贄
ソーニャの愛と肉体 / 万人が滅び去る夢
人間と神と祈り/13の数と「復活」

ドストエフスキーを本格的に愉しむために。目立たぬところに仕掛けられた洒落、笑い、語呂合せ、言葉の多義性の遊び、パロディ精神。スリリングに種明かしする作品の舞台裏。

自身も日本語訳を手がける江川卓氏による『罪と罰』の解説書。
難解なイメージのあるドストエフスキーの作品を、推理小説のようにいろんな角度から分析している。
作品のテーマはもちろん、作中のちょっとした小物使いや舞台となったペテルスブルグの実際の街並み、主人公の名前が意味するところなど、非常に面白く解説しているので、まずはこちらから読み始めるのもいいかも。
『罪と罰』愛読者は必読です!!
関連記事→ドストエフスキーの名作『罪と罰』 米川正夫・訳の抜粋 / 『謎とき 罪と罰』江川卓

【Amazon レビューより】
ドストエフスキーの『罪と罰』を多角的な視点とロシア語の語源から捉えて小説の奥に隠されている様々なメッセージを読み取っていくというまさに“謎とき”の楽しさを教えてもらえる本。改めて『罪と罰』が読みたくなった。

小説のなかの人びと / こころの暗がり / 人生の重荷
生きるよろこび / ロシアの光景
宗教と科学のあいだで/ ゆれうごく社会
作家たちと / ドストエフスキーの生涯

ドストエフキスーの文学には若者の魂を奥底から衝き動かす力があります。
極貧と絶望の果てに殺人へと駆りたてられるラスコーリニコフ、充たされぬ生活から大富豪を夢見るアルカージーなど彼の描く人物像は、時代を越えて現代人の内面を映します。
『罪と罰』『未成年』はじめ主要作品の短い言葉からその魅力に迫る。

中学生向けに書かれたドストエフスキーのアンソロジー集。
まさに名作・名文のおいしいとこ取りで、いきなり本作を読むのはどうも……という方には、うってつけの一冊。
現在、入手不可とのことだが、図書館にはあるかもしれない。
気軽にドストエフスキーに親しみたいという初心者はぜひ。

罪と罰 (マンガで読む名作) (文庫)

いきなり原作はキツイという方におすすめの漫画本。確かにラスコーリニコフがえらくイケメン。
今までまったく興味がなかった方について、とっかりとしてはいいと思います。

さらにグレードの高いものといえば、やはり手塚治虫先生でしょう。

現代の大ヒット『罪と罰』といえば、やっぱこれかね。

初稿: 99/05/09(日)  メールマガジン 【 Clair de Lune 】 より 

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