書籍と絵画

古本屋の良心 お手紙入り Tossy本舗さんと寺山修司

2017年2月27日

世間が村上春樹の新刊で盛り上がる中、我が家には寺山修司の本が届いた。

すでに廃刊になった本も含めて、七冊ほど。

いずれもAmazonのマーケットプレイスで注文し、国際配送業者に依頼して、SAL便にて到着。

マーケットプレイスで100円で売っている本も、海外まで取り寄せれば、配送料、手数料込みで、数倍のコストがかかる。

いつになったら、出版社は本格的に電子書籍に参入するのだろう。

Kindleで読める本が増えれば、海外在住の131万人に加え、老眼、視覚障害で、紙の書籍が読め辛くなったインテリ中高年層(ついでに小金もち)が、もっと気軽に購入するのに。

複雑な気分で開封したところ、包み紙から出てきたのは、どれも新刊と見まごうほどの美品ばかり。

こんな状態のいい古本が定価の1割か2割で買えるなら、わざわざ新刊を求める必要もないし、それほど思い入れのない本なら図書館でいいや、という事になる。その結果、出版業界が傾いても、「そんなことは I don’t know だよ」。
すでに多くの価値ある本は印刷されて、いろんな場所に出回っている。
そして、私たちはインターネットや図書館で、いつでもそれを探し当てることができる。
皆が新刊に興味を無くし、出版社が潰れても、古来から続く良書は残る。
それこそ中世の写本みたいに、誰かが手元の本をデジタル化して、ネットの海に放流するだろう。青空文庫や、海外のグーテンベルク・プロジェクトみたいに。
作家の魂と読者の結びつきは、業界の思惑よりはるかに強い。
作品がそれだけの生命力を持っているから、作家が亡くなって何十年、何百年たとうと、いいものはちゃんと生き残るんだ。

今回、いろんな理由から寺山修司の未読の本を取り寄せたのだけど、その中の一冊『寺山修司と演劇実験室 天井棧敷 (Town Mook 日本および日本人シリーズ)』の包みに手書きのお便りが入っていてびっくり。

筆跡から察するに、お年を召した店主さまなのでしょうか。Tossy本舗さん。

寺山修司

こちらもセンスのいい和紙のメモ。本麻・牛革『飯島シューズ』の広告の上にひっそりと「お楽しみいただけますように♪」
本書より、こっちのメモに胸を打たれてしまうではないか。(飯島シューズも気になる……)

寺山修司

他にも「寺山修司の本は各種取りそろえております」と広告のプリントまで。
客への気遣いよりも、大事に本を持って下さってるのが有り難い(売り物であったとしても)。

寺山修司

今回の収穫の一部。すでに廃刊になっているのもある。

寺山修司

私もいろんな店舗を利用したけど、手書きのお便りが入っていたのは、これまでに一軒だけ。手作りのおむつショップは、サービスも品質も最高だった。

もっとも、注文の度に手書きのお便りを同封していては、手間もコストも半端ない。皆が皆、心に思っても、なかなか同じようにはできないだろう。
そうと解っても、こういうプラスアルファに消費者の気持ちは動かされる。

「次もここで買おう」

ネット通販は互いの顔が見えないから、余計でそう思う。

世の中には古本を嫌がる人もあるけれど、古本にも運命はある。

誰かの手に取られるのをじっと待ち続ける、『こげぱん』みたいな人生だ。

前の持ち主は、その本に飽きたか、期待外れで手放すことにしたのだろう。

だけど、屑籠ではなく、古本屋に持ち込んだという事は、哲学的理由から本をゴミ箱に捨てられない人種であるか、一銭でも回収したい性格であるか、どちらかだ。

賢人であれ、ケチであれ、本に生き道を残してくれたことは有り難い。もしかしたら、製本化された、この世で最後の一冊かもしれないから。

その後、誰かが「要らぬ」と手放した本を、他の誰かが「読みたい」と拾い上げるのも運命的だ。

きっと本にも意思があって、いつかは必要とする人の手元に届くよう、しぶとく生き続けるのかもしれない。

その間に介在する古本屋は、さしずめ、あの世とこの世を結ぶ渡し守といったところ。

出版不況の原因は古本屋にもあると憤る声もあるけれど、出版社に頼んだところで、既に廃刊になった本を私のために印刷してくれるわけじゃなし。古本屋がなければ、多くの良書が、タイトルだけで実体の無い不成仏霊になっていたことだろう。

今回、私が注文した『墓場まで何マイル』も、市場から消えて、再版の見込みも無いような感じ。角川春樹事務所は出版してくれたけど、今のKADOKAWAには期待できそうにないから。

ちなみに私が入手した『墓場まで何マイル』は「春日部市立図書館」からの流れもの。古本とは思えないほど良い状態で、なんで古本屋に流されたのか分からない。それでも、遠く海を渡って、私の手元にやって来た。いい本は、以前にどれほど不当な扱いを受けても、それを求める人の所に辿り着くよう天徳があるのだろう。

この本には、1982年9月、朝日新聞に掲載された寺山修司の遺稿が収録されている。

子供の頃 ぼくは
汽車の口まねが上手かった
ぼくは
世界の涯が
自分自身の夢のなかにしかないことを
知っていたのだ

この一文に泣けた。

そして、いつの間にか、寺山修司より年を食ってしまった自分自身に淋しいものを感じた。

同時に、この方は、少年のまま亡くなってしまったのだと、しみじみ思う。

人の子の親になったなら、「逃げる」という大きな願いが、もしかしたら叶ったかもしれないのに。

そして、生きるということは、大人の目で寺山修司を読み返すことだ。

それが批判であれ、違和感であれ、寺山センセなら、きっとこう仰るに違いない。

「僕の背中を踏んで、前に行けよ」と。

*

ちなみに、これは私が一番最初に買った本「ポケットに名言を」の改訂新版のための『あとがき』の最後の一文。

思想家の軌跡などを一切無視して、一句だけとりだして、ガムでも噛むように「名言」を噛みしめる。その反復の中で、意味は無化され、理性支配の社会と死との呪縛から解放されるゆな一時的な陶酔を味わう。

ピンク・レディーの唄でも口ずさむようにカール・マルクスの一句を口にし、明日はあっさりとそれを裏切っている。こうした軽薄なことばの関わりあいを、ミシェル・フーコーの<混在的なもの>エテロクリットなどと同義に論じようなどといった大げさな野心はない。ただ、私は、じぶんの交友録を公開するように、この「名言」集を公開し、十年たったので、多少の入れかえを行った、というにすぎない。そして、「名言」などは、所詮、シャツでも着るように軽く着こなしては脱ぎ捨ててゆく、といった態のものだということを知るべきだろう。

「名言」はだれかの書いた台詞であるが、すぐれた俳優は自分のことばを探し出すための出会いが、ドラマツルギーというものだということを知っているのである。

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