育児と家庭

第一子出産の回想 ポーランドにて

2005年3月21日

7月18日から始まったあの週は、気温も高く、好天に恵まれ、本当に美しい週でした。
2004年の夏は、32年ぶりの冷夏ということで、7月になっても最高気温が15度~20度ぐらいにしかならない日が多く、ベランダに植えた花々もどこか元気がない、淋しい夏だったからです。

それまで、私は、二度に渡って入院していました。

一度目は、6月21日から6月24日の4日間。
二度目は、7月1日から12日の12日間です。

一度目の入院は、前駆陣痛がにわかに強くなった為でした。
というのも、6月に入ってから、ご縁のある日本企業の方が仕事で訪問され、毎日のようにディナーや観光にお連れしていたからです。
大きなお腹を揺さぶって、クラクフやアウシュビッツまで出掛けたぐらいですから、早い話、ちょっと無理してたんですね。
そして、6月20日の日曜日は、皆で社員さんのご両親の山荘を訪問しました。
養蜂場を見学したり、ディナーをご馳走になったりと、楽しい一時を過ごしたのですが、なにせ山の中ですから、車が上下に跳ねること、跳ねること。
下腹に力を入れて、うんと踏ん張っているうちに、だんだん痛みが強くなり、そのまま収まらなくなってしまったのです。
一晩様子を見て、次の日の朝、病院に行きました。
検査では特に問題はなかったのですが、念のため、即日入院することになったのです。

私がお世話になったフレデリク・ショパン病院は、お洒落な名前とは裏腹に、日本のそれとは余りにもかけ離れた所でした。
もちろん、医療技術や知識において何ら劣る部分はないのですが、共産主義時代に建てられた病院だけあって、施設はまるで収容所、地元の人でさえ「刑務所」と呼ぶぐらいですから、その無機的かつ陰気な外観は容易に想像がつくのではないかと思います。

近年になって大幅に改装され、新たに増築された病棟は床や壁の色も明るく、清潔ですが、それでもホテルみたいな日本の病院を思えば、まだまだという印象が拭えません。

何より私が驚いたのは、プライバシーもへったくれもない、病棟の作りでした。
まず病室のベッド間に仕切りカーテンはなく、他の患者の目のある所で平気で処置や診察が行われます。
内診台にも目隠しカーテンはありませんし、衣類を脱ぐ場所さえ確保されていない事が多いです。
私も、医療スタッフ一同による回診で内診されましたが、医師や検査技師など十人ぐらい居並ぶ中で下着を脱ぎ、内診台に上がった時には、本当に嫌な思いがしたものです。

「とにかく患者は回せばいい」
患者の立場に立って、というよりは、医療者の都合の良いように作られているように感じました。
まだ前の患者が身繕いしているにもかかわらず、次の患者がどんどん呼び入れられたり、食事中でも検査に呼び出されたり、点滴されたりと、日本の病院ならたちまちクレームの嵐になりそうな荒っぽさです。
にもかかわらず、ポーランドの患者はみな苦笑いするだけで、日本の患者のように新聞に投書したり、管理者に突っ掛かったりしません。
「病院というのは、そういう所なんだ」と、誰もがクールに割り切って見えました。それが、この国で生きるための知恵なのか、諦めなのかは、分かりませんけれど。

次に驚いたのは、食事の貧しさ。
ある日の食事を書き出せば、
朝食:ロールパン一個、バター一かけ、牛乳と少量のコーンフレーク。
昼食:マッシュポテト、キャベツのサラダ、100グラムほどの鶏肉、
野菜スープ。
夕食:薄切りパン二枚、ハム四枚、リンゴ半個。

毎日、この程度しか提供されません。
他の科でも、男性でも、同じ事です。
普通、産婦人科食といえば、病院で一番ゴージャスな食事がサービスされるもの。
それでなくても妊娠後期で、ハイカロリー食が必要なのに、入院初日、私はお腹の痛みより空腹で死にそうでした。
これでは治る病気も治らないですよね。
地元の人が、「入院したら死ぬ」と噂する道理です。

なぜ、こんな事になるかというと、ポーランドの病院は、保険に加入している限り、医療費は全額、公的負担になりますから、患者一人に対する自治体からの支援金が乏しければ、当然、そのしわ寄せは食事や設備費に当てられます。
それでなくても国全体が貧しく、医療福祉に十分なお金が回らない状況ですから、病院管理者に文句を言っても仕方がないんですね。
彼らだって、わざと粗食を提供している訳ではありません。
『お金がない』のです。
日本人には信じられない話ですが、本当に「無い」のです。

それは食事にとどまらず、「トイレに備え付けのトイレットペーパーがない」とか、「婦人科用パッドがない」とか、「陰部の清浄綿がない」とか、挙げればきりがありません。
日本の病院が、「設備はホテル、食事はレストラン並」とか、「ほとんど全てのトイレにウォッシュレットが付いている」とか、「ベッドはたいてい電動式」とか言ったら、こちらの人は、びっくりされるのではないでしょうか。

そんな状態でしたから、私もこの時ばかりは「日本に帰りたい」、やはりポーランドに来たのは間違いではなかったか、と思いました。
今はまだ良いとしても、年を取って、ますます深刻な病気になった時はどうなるのかと、切実に考えました。
まさかここまで落差があるとは想像だにしなかったからです。

とはいえ、一度、自分で覚悟を決めたことを、ぐじぐじ思い返しても仕方ありません。
自分で選んだ道です。
日本を出る時、心の中で、別れの杯も交わしました。
日本でなら確実に治る病気で死んだとしても、自分で選んだ運命と思えば腹も決まります。
一人で生きる困難や淋しさよりも、二人で生きる幸せを選んだのだから、それに伴う不便や不自由は受け入れるべきなのです。

そんな事をつらつら考えながら、病院での日々を過ごしました。
最初はおっかなびっくりで、声かけすらしてくれなかった看護婦さんも、私が多少なりとポーランド語を理解していると分かれば、少しずつ話しかけてくれるようになりました。
私も、日本語の分からない外国人の患者と接した経験があるので、十分にコミュニケーションが図れない患者を看護するのがいかに難しいか、よく分かります。
それでも、優しい人は優しい。
どこの国でも、看護婦になる人は、基本的に人間が好きで、心に柔軟性があるものだと思いました。

話によれば、賃金未払いなど、医師や看護婦の労働条件は非常に厳しいと聞きます。
そのせいか、中には横柄で、仕方なく「やってやってる」ような看護婦もなきにしもあらずでしたが、多くの人はやはりプロ意識をもって務めておられたように思います。

そうして、一度目の入院生活が終わり、ほっとしたのも束の間、退院後の検診に出掛けたら、今度は「臍帯が圧迫されて、血行障害を起こしかけているので、今夜か明朝には緊急OPが必要かもしれない」と言われ、再び即日入院となりました。
お腹に分娩監視装置のベルトを装着し、モニターから聞こえるせわしいほどの心拍音に耳を傾けながら、私と彼は言葉もなく、「いったい何が悪かったのか」と痛いくらい自分を責め続けました。

だって、何もかもが順調で、予定日には椰子の実が木から落ちるようにストンと自然分娩すると信じて疑いませんでしたから、いきなり緊急OPだの、血行障害だの言われても、通り魔に後ろからナイフで刺されるようなもので、一体、何が起こったのか、即座に理解することが出来なかったからです。

幸いにも、一定時間、左半身を下にして休んだところ、自然に臍帯圧迫が解除され、その後はまったく問題なくなったのですが、相変わらず前駆陣痛が著しく、いつ本物の陣痛に移行してもおかしくない状態でしたので、念のため、しばらく入院することになりました。
今、産まれても、延命不可能という訳ではないけれど、産まれるにはまだちょっと早すぎるため、安静が必要だったからです。

それから一日二回の分娩監視装置による心拍モニタリング、二~三日に一度の超音波検査によるフォローが始まりました。
検査結果はいずれも良好で、特に問題はありませんでしたが、一分間に120~140も打ち続ける胎児の心拍に耳を傾けていると、「苦しい、苦しい、早く出たい」と言っているように聞こえてなりませんでした。

いくら子宮の中は温かくて安全といっても、暗くて狭苦しい所です。
私なら数時間だって耐えられません。
それでなくても、あちこち出掛けたり(五ヶ月目には帰国するため国際線にも乗りました)、一日中、家事に仕事に忙しく動き回ったりと、妊婦とは思えない運動量をこなしていましたから、私の胎内環境は相当ストレスフルだったのではないかと。

ただ、時々、こうも思いました。
この子は、身体的にも精神的にも、私がすごくしんどい思いをしているのを知っているんじゃないか、と。

正直、妊娠後期があんなに辛いものだとは思いもしませんでした。
8ヶ月にもなると、大きくなった子宮に胃や肺が圧迫されて、安静にしていても、動悸がしたり、胃液が上がってきたり、不快な症状が一気に押し寄せてきます。

以前は楽々歩けたスーパーへの坂道も、帰りはハアハア息が切れるほどしんどかったし、手足も顔もパンパンにむくんで、ちょっと歩いただけで、足が象のように膨れることも少なくありませんでした。

また、この頃になると、仰向けに寝ることが出来なくなり、椅子に座っていても、自身の身体の重みで腰やお尻がジンジン痛んで、身の置き所がなくなってきます。

身体の動きもどんどん制限されてきますし、床に落ちた物を拾うにも、何かに掴まらなければ、コロンと転げてしまいそう。

それに、この頃になると、嬉しいはずの胎動も、胎児の力が増して「蹴り」や「突き」と化します。胎動は、夜に特に激しくなるので、寝入りばなに膀胱の上や脇腹をガンガンやられた時には、びっくりして目が覚めることもしばしば。しまいには気持ち悪くなって、「お願い、静かにして」と何度も心で呼びかけたものです。

そんな具合ですから、9ヶ月にもなると、さすがに根負けして、「お願い、早く産まれてくれ~」と思わずにいませんでした。
まだ早過ぎると分かっていても、これ以上、耐えられなくなってくるからです。

一番の苦痛は、良眠できないことでした。
仰向けはもちろん、右を向いても、左を向いても、重いお腹に圧迫されて眠れない上、頻尿になって、夜中でも二~三時間、時には、一時間おきにトイレに起きる為、長い時間、まとめて眠る事が出来ないからです。
育児書によれば、出産後の授乳サイクルに備えて、小刻みでも深い眠りに落ちるよう、徐々に睡眠のリズムが変わってくるそうですが、重いお腹で、二~三時間おきに寝たり起きたりするのは、やはり辛いものです。
あと一ヶ月ほどの辛抱だと分かっていても、その最中にいる時は、その苦しみが永遠に続くのではないかと思ってしまうんですね。

そういう私の苦労と葛藤を知ってか、最終的に38週で産まれた訳ですが、今思えば、「子供が私に合わせてくれた」ような気がしてなりません。
元々、週数の割には頭囲の大きな子でしたから、40週まで持ち越していたら、とてもじゃないけど自然分娩は出来なかったと思います。

よく「三つ子の魂、百までも」と言いますが、実際には、胎児の頃から――あるいは産まれる前から――、その子の性格、意思や感情は息づいているのではないでしょうか。
私も妊娠が分かった時から、「この子は私を助ける為に産まれてくるのだ」と感じたことがしばしばありました。
言葉で意思の疎通が図れる訳ではありませんが、何かしら、身体の奥深くから訴えかけてくるものがあるのです。
体長8ミリの小さな細胞でも、私には「精神の存在」が感じられたし、優しい子か、強い子か、キャラクターまで浮かび上がってくるようでした。

それが決して思い込みや想像過剰でない事は、産まれた我が子を見て確信がいきました。
何故なら、白紙であるはずの新生児とはいえ、繊細で、お茶目で、時々、気むずかしい性格がはっきり感じられたからです。

子育て系サイトで有名な萩原光さんのコラムにも、同様の事が書いてありました。生後一ヶ月か二ヶ月の赤ちゃんでも、「内気」とか「臆病」とか「恥ずかしがり」とかいう性格があるのだと。
もちろん、人格形成は、家庭環境や親の躾など、後天的な条件に大きく左右されるのでしょうが、基本となる性格は親の遺伝子から受け継ぐのかもしれません。

ともあれ、私は出産を機に「占い」というものに対する興味をほとんど無くしました。
今でもホロスコープを見たり、風水を調べたりするのは好きですが、「7月に生まれたからこういう性格になる」というよりは、「人間が自分で選んで、その星を背負って生まれてくる」としか思えないからです。
占いでは、運命が人間の意思を支配するように言いますが、人間の意思は運命よりはるかに強く、神様でさえ立ち入れないような、もっと奥深い所で、世界の有り様を支配しているのではないでしょうか。
つまり、私たちは、自分の未来も、行く末も、いつ死ぬかさえも、本当は心の何処かで知っているのだと。

こうして、私たちの順調過ぎるほど順調だった妊娠生活は、臨月間際に突如スクランブル状態となり、最後の審判で「地獄行き」を突きつけられたようなショックを経験したわけですが、今、思えば、このトラブルがあったからこそ、お腹の子の事をいっそう強く意識するようになった――つまり「出会い」への本格的な準備が始まっように感じます。
それは私とユキちゃんだけでなく、私たち夫婦にとっても、「親」になるための準備の始まりだったと。

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