子育てコラム

子供のいる生活 ~ベビーが我が家にやって来た!~

2004年12月5日

『Baby changes Everything』

これは、イギリスで刊行されている育児雑誌にあったタイトルです。

初めてこの言葉を目にした妊娠後期、「そんなに生活が変わるのか~。フフフ、なんか楽しみ~(^u^)」なんて気楽に考えていたものですが、いざ生まれてみると、『change』なんて生やさしいものではない。

痛い。
しんどい。
眠れない。
食べられない。

何をどうしていいか分からない。

さながら、未知の空間から湧き出たエイリアンに、夫婦の穏やかな生活はもちろん、生命まで侵食されるようなショックの連続で、今、こうして以前と同じ空気を呼吸しているのが不思議なくらいです。

特に、最初の一週間はどうやって生き延びたのか、自分でもよく覚えていません。
こちらは出産後72時間で退院させられる上、創部の炎症がひどかったせいもあり、日頃、70~80回/分の脈拍が50以下に落ち、手足がむくんで、心不全の三歩手前ぐらいまで衰弱していたからです。

にもかかわらず、子供はお乳を求めては泣き、オムツが濡れたといっては泣き、一分一秒だって、休ませてはくれません。

貧血と疲労でフラフラになりながら、雀の涙ほどしかオッパイの出てこない乳首をくわえさせ、やっと寝かせ付けたと思ったら、一時間も経たないうちに、またお腹が空いたと泣き出す――。

「寝たい」「苦しい」「頭が痛い」

そんな言葉しか思い浮かばない中、それでも必死にやって、ああ、ちょっと傷の痛みが引いたかな……と思った頃、今度は、乳腺炎を二度も患わせて、気が遠くなるような乳首の痛みとの闘い。
39度の高熱を出しながら、旦那と夜中までかかって、乳腺の奥で固まった母乳を必死で絞り出した日には、口から泡を吹いて倒れそうなくらい、つらかったです。

その後、姉が急送してくれたヨモギ茶を飲み始めて、やっと人並みに授乳できるようになるまで、約一ヶ月。

母乳が溢れるように出る頃になって、ようやく、我が子の誕生を喜ぶ余裕が出てきたのですが、それまでは、「生きなきゃ」「生かさなきゃ」の、ほんと、命がけの闘いだったのです。

それまで私は一人で生きてきて、自分の命が誰かにとって必要不可欠と認識することなど一度もありませんでした。
旦那にしたって、もし私が死んだら、後は彼なりに生きていくだろうし、そこまで自分の命に責任を感じることなど無かったのです。

でも、子供が産まれて、オッパイを含ませるようになってから、私は、はじめて自分の命に対して大きな責任を感じました。

それまで、「私なんか、どうなっても、誰にも何も関係ない。いつ死んだって構わない」みたいに、センチな少女漫画気分でいたのですが(特に、一人の時は)、小さな口をモグモグ動かして、必死に乳首にしがみつく子供の姿を見た時、私の意識は変わりました。

「私が倒れたら、子供も倒れてしまう。この子は、私がいなかったら、死んでしまうんだ」

そう痛感した時、私は、私の命が、自分一人だけのものではないこと――私にとって「生きる」ということは、もはやセンチな少女漫画ではなく、他人の命や人生を預かる、責任ある仕事なのだと認識したのです。

人間にとって、最悪の孤独は、「誰にも必要とされず、誰をも必要としない」ことでしょう。

数年前、姉の子供が産まれた時、私はとても羨ましく感じました。それは、「姉が母親になったから」でも、「子宝に恵まれたから」でもなく、子供に絶対的に必要とされている姿が羨ましかったのです。

でも、当時の私には、それが孤独ゆえとは分かりませんでした。
分かっていたのかもしれませんが、そうは思いたくなかったのです。

ゆえに、自分の命が、誰かにとって絶対不可欠であると認識することは、私にとって、非常に感慨深いと同時に、今まで自分の命などクズみたいに考えていた自身に対して、戒めの気持ちを抱かずにいませんでした。

人間って、ただ存在するだけで、誰かを幸せにしているはずなのに、「いつ死んでもいい」と思うことは、その人の幸せを犠牲にするのと同じだからです。

「いつ死んでもいい」という思いは、謙虚なように見えて、本当はとてもおこがましいのかもしれません。

それから、こうも思いました。

「『私はどうなってもいいから、子供の命だけは……』というのは嘘だ。私がどうかなったら、子供もどうかなってしまうのだから、私がどうかなっていいはずがない。本当に子供を大事と思うなら、まずは自分を大事にすべきなのだ」と。

もちろん、『私はどうなってもいいから……』というのは言葉のアヤで、母親にとって究極の思いであることに変わりはありません。

が、平常においては、そうではない――「私はどうなってもいい」というような事はあり得ないし、あってもならない。
全ては、私あっての子供の命であって、まずは自分が与えられるだけのものをしっかり身に付けておく必要があるのだ、と痛感したのです。

育児系サイトでは、そういう基本を、しばしば「お母さんに優しい育児」という言葉で表しています。
つまり、子供のニーズを満たしたければ、まずは母親から、という意味です。

子供に十を与えようと思ったら、母親に十以上のものがなければ出来ません。
母親が五か六しか持ってないのに、子供に十を与えようと頑張れば、いつか双方とも力尽きてしまいます。

ゆえに、気力でも体力でも、まずは母親が与えるに足る力をもっていなければならず、もしそれを欠くようなら、子供にあくせく働きかける前に、お母さんから充填する必要があるのです。

「お母さんに優しい育児」というのは、決して自己本位な考え方ではなく、与える役目だからこそ満ち足りていなければならない、という、非常に分かりやすい原理です。

そして、この原理は、母子に限ったことではなく、人間関係すべてに当てはまることではないでしょうか。

自分の中身がスッカラカンで、どうして他人を本当の意味で愛せるでしょう。
癒されるべきは自分自身なのに、それを後回しにして、どうして他人のケアができるでしょう。

自分が満たされていなければ、一時は他人に優しくできても、いつか、どこかで、「私ばっかり」という恨みが湧いてくるもの。
その恨みが頭をもたげた時、相手に「もっともっと」と要求するから、何をやっても躓いてしまうのです。

有名な占星術師&心理カウンセラーのマドモアゼル愛さんは、『自分を愛することから始めよう』とお書きになりましたが、私は、改めてその意味を思い、ガツガツと生きていた頃の事を思い巡らしました。

あの時、私は、空っぽのビヤ樽の底を削るようにして、他人の為に必死に尽くしていたし、「何かおかしい」と感じながらも、それが正しいと信じて疑いませんでした。

もともと空っぽの所から、何かを取り出そうと必死になり、それをやりさえすれば、自分も評価されるし、相手にも振り向いてもらえるはず――という勘違いは、ずいぶん長い間、私を苦しめてきたように思います。

自分を愛することなく、他者は愛せないし、また自分が満ち足りることなく、相手を満たすことは出来ない。

それが真理にもかかわらず、自分自身から目を背け、がむしゃらに他人の評価を得ようとする人の、何と多いことか。

そして、そういう人々の目には、自分に満足し、マイペースで生きている人の姿が身勝手に映り、「あの人には、所詮、私たちの苦しみは分からない」と怨んでみたりもするのです。

自分を愛することの意味が分かった時、他人を愛することがどういう事かも分かります。

出来れば、そういう事を、人は親になる前に、失恋に代表されるような人間関係の失敗から学ぶべきなのです。
「あの人が悪い、親が悪い、社会が悪い」と言う前に――。

「Baby changes Everything」の言葉通り、大混乱の中で始まった『子供のいる生活』も、授乳やお世話の要領が分かるようになるにつれ、徐々に落ち着きを取り戻し、今ではほとんど日常と化して、夫婦の間にしっくり馴染んでいます。

「子供を持って変わったか」と聞かれれば、私自身は何も変わらないし、「母親」とは名ばかりで、一段昇ったような自覚もありません。

意識革命というなら、むしろ、某氏に片思いして、愛する悦びを知った時の方がはるかに大きかったし、あれこそ人生の大転換期と呼ぶにふさわしい出来事だったと今でも思います。
多分、私にとっては、幸せよりも、辛く悲しい出来事の方が、はるかに多くのものをもたらしてくれるからでしょう。

ただ、ほのぼのとした日常の中で、一人で気張っていた頃のことを思うと、私も来る所まで来たのだなあ、と、しみじみ感じます。

矢野顕子さんのヒット曲『Home sweet Home』の中に、

誰も 分かってくれない
ここに 居られない

壊した家を出たくせに 
今 私達は
新しい家をつくる 

という歌詞があるのですが、まさにこの心境ですね。

これから私自身はもちろん、旦那や、二人の生活、しいては、周囲の人々の生き様がどんな風に変化していくのかは分かりませんが、「産んだ以上は責任を持って育てたい」、そんな気持ちでいっぱいです。

——————-【後記】———————-

海外にいると、日本の情報がほとんど入ってこないので、辛いです。
本や雑誌を買おうにも、海外発送してもらうと、二倍から三倍の値段になるし、企業や出版社の公式サイトで拾える情報も僅かだし、親や姉に聞こうにも、そうそう長電話できませんしね。

今回、出産や授乳について、「どうしたらいいのかな~」と頭を抱えていた時、個人が発信されている育児系サイトやブログは本当に役に立ちました。

今まで、他人様の日記とか、ほとんど興味がなかったのですが、育児に関しては、経時的に、子供の成長ぶりなどがつぶさに記録されていると、とても参考になるのです。

あ~、みんな悩んでるんだな~、と思うと、救われるし、励みになりますね。

どんな人でも、「親になったら哲学者」という感じで、何気ない一言にも、経験から培われた知恵や思いやりの心が感じられて、読んでいて気持ちの良いものが多かったです。

一方、「恋すりゃ、詩人」とばかり、恋愛系のブログも非常に多いですよね。
恋愛中、落ち込んだり、淋しかったりして、いろいろ書きたくなる気持ちは、とってもよく分かります。
書いているうちに、自分も気が収まるし、横から、ビジターさんに、「うんうん、そうね」と頷いてもらえるだけで、落ち着きますからね。

ただ、いろいろ読んでいて思ったのは、恋愛系ブログの大半は、

「あれしてくれない、これしてくれない」
「彼の気持ちが分からない」

こっちまでウツになりそうな、重いものが多いということ。

気持ちは分かるけど、そのままグイグイ押しても、彼氏は余計で逃げていくんじゃないかな~、なんて、ついつい突っ込みを入れたくなるようなものが、結構ありました。

まあ、それが恋愛の醍醐味といえば、そうなんですけどね。。。

それにしても、同じように悩み、苦しみを書いても、育児系と恋愛系では、どうしてこんなに爽やか度が違うのか。

たとえば、恋愛の悩みは、「恋が思う通りにならない」「不安で仕方ない」のように、自分のエゴから発生するものが大半だけど、育児の悩みは、「子供を幸せにしたいけど、どうしていいか分からない」「もっと愛したいのに、子供が可愛いと思えない」など、相手主体の場合が多い。

要するに、自分のエゴが満たされずに「苦しい、苦しい」と喚くのと、「相手を幸せにするにはどうすればいいか」で悩むのとでは、重さが違うんですね。

言い換えれば、恋愛において、本当に彼のことを愛していたら、「彼を幸せにするにはどうしたらいいか」で悩むはずで、そういう悩みは、相手を悲しませこそすれ、負担になることはないのです。

ブログに切々と書かれた「あれしてくれない」「彼の気持ちが分からない」のつぶやきを見て、第三者が読んでも重いのに、当事者の彼から見れば、もっと重いのではないかと思いました。

書いている本人さんが、後で客観的に自分の文章を見直してみて、それに気付いて下さればいいけれど、それが無くて、ただただ「しんどい、苦しい」と繰り返しているだけなら、せっかくの記録が勿体ないようにも思います。

私も、決して、恋愛している女はバカで、子育てしている女は上等、なんて言っているわけじゃないですよ。

ただ、相手主体の悩みと、エゴのうめきには、こんなにも違いがあるものかと、つくづく考えさせられただけで。

もし、彼女らが、その違いに気付いたら、恋愛ももっと上手く行くような気がするんですけどね。

まあ、他人様の日記を見て、あれこれ突っ込むのも意地悪いかもしれませんが、自分の中に似たようなものはないか、なぜこの人の恋愛は上手く行かないのか、いろいろ分析しながら読むと、非常に参考になると思いますよ。

[記 : 04/12/05]

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