映画

法と支援の狭間 甘くない現実と愛の映画『チョコレートドーナツ』

2017年1月24日

どこかで社会問題が生じると、すぐ「支援」という言葉が飛び交うけれど、実際に支援の現場で、支援の必要な人たちに接していると、『善意』だけで物事は解決しない現実に直面し、言いしれぬ無力感や不条理感に陥るのが普通だと思います。

世間一般には何事も美談で語られ、都合の悪い現実からは目を背ける傾向がありますけども。

2012年、「泣ける映画」として封切られ、実際、多くの観客の心を揺り動かした映画『チョコレートドーナツ』(原題: Any Day Now)も、そうした『支援』の現実と限界、法や制度は何の為に存在するのかを考えさせる作品です。

涙のままに見れば、「裁判官は人情を理解しない悪いヤツ」「本人の望むままにすべき」と結論付けられるでしょう。

でも、支援する側から見れば、「当事者の都合」や「人情」だけでは割り切れぬ問題も出てくる。

何が正解で、何が救いとなるか、万人が納得する答えには永遠に行き当たらない話です。(物語的には、当事者の望み通り、三人を家族として一緒にするのが正解ですけども)

そうした現実の中で、同性愛、貧困シングルマザー、病児のケア、法制度の矛盾、等々、社会問題の様々な側面をちりばめた本作は、「自分ならどうするか(当事者、裁判官の両面から)」を問いかける、美しいドラマです。

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概要はオフィシャルサイトでどうぞ。

日本バージョンの予告編は、やけに感動を強調したナレーションとBGMであまり好みではありません。
本家本元のトレーラーの方が作品の本質を上手に伝えていると感じますので、興味のある方は見比べて下さい。

ドーナツは育児放棄の象徴

「夕食にドーナツを食べたい」という一言で、普通に子育てしたことのある母親なら、男の子の置かれた状況がピンとくると思います。

子供はみんな、お菓子が大好き! 

それは間違いです。

多少手抜きはしながらも、栄養に留意し、常識的な食生活を心がけておれば、「子供がご飯よりお菓子を欲しがる」という事はないです。

世界にミルクとバナナしか存在しない乳幼児ならともかく、小学校にも通う年齢になれば、ご飯の時にはご飯を欲しがるし、子供なりに「お菓子よりご飯が大事」と理解して、多少の自制も利くものです(アイスクリームは夕食の後、みたいな)。

ところが、本作の男の子は、ポールの手作りのラザニア(とても美味しい)にも何の関心も示さず、「ドーナツ」を欲しがる。
ルディが朝食にピーナッツバターやクラッカーをすすめても「ドーナツ」。

その様を見れば、男の子の日頃の食生活が伺い知れます。

麻薬依存の貧困シングルマザーは、料理するのも面倒で、そのへんのスーパーで買ってきた袋入りドーナツをポンと与えていたのでしょう。ドーナツ以外にも、ジャンクフード、インスタント、「腹が膨れたら何でもいい」という考えで。

実際、ルディとポールが男の子を病院に連れて行けば、健康面について、まったく配慮されてない事実が明らかになります。

明らかに『育児放棄』ですよね。

でも、母親の側に立てば、そこにも言い分はあります。

どういう経緯で麻薬依存の貧困シングルマザーに陥ったのか、作中では語られていませんが、「ダウン症の子供が生まれた」→「夫婦仲険悪・夫の無理解、非協力」→「夫は女を作って家を出て行く」→「母親一人が取り残される」→「生活の手立てもなく、精神的苦痛を紛らわすためにドラッグに手を出すようになる」→「ますます気力を失い、育児放棄」。日本にも似たようなケースは数多く存在するでしょう。

問題は、そこに至るまで、何の社会的支援も得られなかったのか、ということ。

母親がその方面について全く無知だった可能性もあるし、精神的苦痛から支援にも背を向け、だんだん社会的に孤立していった背景もあるでしょう。

いずれにせよ、貧しい母子に手が差し伸べられることはなく、ここにも社会の無関心や支援制度の問題が垣間見えます。

いわば「チョコレートドーナツ」は、社会全体の育児放棄の象徴ですね。

美味しい料理の味も知らず、病気になっても誰も親身に世話してくれず、隣人もそれを知りながら見て見ぬ振り、と。

「悪い母親」と断罪するのは簡単だけど、「悪い母親」の横には「子を捨てた父親」があり、その周りには無力な社会があるわけですから、そこを総合的に見ないと、本当の意味で問題点は見えてこないと思います。

子供を世話したいと申し出るルディに、留置所で母親が尋ねる。「お金はいるの? タダで見てくれるの?」

この母親自身も、今まで無償で誰かに助けてもらったことなど皆無なのでしょう。

医者に診せるには金がかかるし、ベビーシッターだって無料では有り得ませんからね。

だから、余計で、この世でただ一つのご馳走であるドーナツを美味しそうに頬張る男の子の姿に、大人社会の愚かさや身勝手を感じずにいないのです。

男の子のこれまでの暮らしや立場をくどくど説明せず、「ドーナツ」という要素に込めた監督の狙いも素晴らしいと思います。

夕食にドーナツを欲しがる男の子をルディがやさしく窘めると、「たまに一つ食べるぐらいなら平気だよ」と諭すポールのやり取りも本物の夫婦みたい。

どこの家庭もたいがいママが「だめ!」と言い、パパが「いいじゃないか、たまには」と、子供に易々と揚げ菓子やらチョコレートを与え、母親のこれまでの必死の食育を一夜で崩壊させる場面は、ルディとポールに限ったことではありません^^;

ちなみにポテトチップスではなく、ドーナツが登場するのは、アメリカらしい要素だと思います。一度でも、アメリカの大衆向けスーパーで売っているケーキやドーナツを食したことがある人なら分かると思いますが、顎の骨が溶けて外れそうな、異様な甘さです。よくこんなものを日常的に食して、病気にならないものだと不思議に感じるくらい。
そんでもって、それを食事代わりにしている家庭も実際にあって、「野菜が食べたい」と申し出たらフライドポテトが出てきた、というのも決して笑い話ではありません。
そして、そのベースには、生活格差や意識格差が存在することもあり、「食生活」というのは、まさに社会の実情を現わす要素だと思います。

法と正論は人を救うのか

物語の後半、男の子の監護権をめぐって裁判所で争うことになります。

真の愛情を注いでいるにも関わらず、養育者がゲイというだけで「不適切」の烙印を押され、男の子は施設に強制入所、しまいには法的に近接することまで禁じられます。

弁護士や裁判官らのやり取りを聞いていると、その融通のなさに義憤を覚え、法も正論も人を救わないことを痛感するでしょう。

一方で、何の為に制度があり、法があるかといえば、『情』だけで対応していたらキリがない、という現実があるからです。

たとえば、相談者の貧困母子に同情して、窓口の係員が自分の財布から500円を手渡し、「これで牛丼でも食べて」と言えば、いわば美談の人助けですよね。

実際、それで一時にせよ空腹が満たされ、生きる気力が湧いた・・というなら、確かに救済ではあるけれど、そういう事をしだすと、あの人にもこの人にも平等にやらないといけない。

感情的に、AさんはOKで、Bさんはダメ、という理屈は絶対に通用しません。

「お腹が空いた」という母子みんなに500円を手渡していたら、係員も生活が破綻するし、「500円をくれる係員は良い人で、くれない係員は悪い人」という話になれば、支援の現場などめちゃくちゃになってしまいます。

だから、「万人が納得いくような基準や制度を設け、ガイドラインに沿って援助する」という事が、どこの職場でも徹底されています。

たとえ感情的に「かわいそう」と感じても、どこかで線引きしないと福祉自体成り立たなくなるし、「適切なケースに、適切な援助」を実践し、万人にその恩恵が行き渡るようにする為にも、「例外」は作れないからです。だって、「オレも例外、あいつも例外」という話になれば、これもエンドレスに支援せざるを得なくなりますし、誰かに支援が集中するという事は、どこかが手薄になるという事だからです。

本作の場合、裁判所側は頑なに「同性愛者は不適切」というスタンスで、ルディとポールの監護権を拒否し続けます。

それは誰が見ても理不尽で、愚かで、無知な判決です。

でも一方で、社会的影響を恐れ、「例外は作りたくない」という裁判所の思惑も見え隠れします。

このあたりは、当時のアメリカの社会背景を知悉しないことには断言できませんが、もし同性愛カップルの監護権や養育者を認めてしまったら、その延長で、結婚や相続の権利の主張も出てくるでしょう。今でこそ同性婚は認められていますが、当時としては、断じて許されないことであったろうし、また「一つの例外」に乗っかった『制度のなし崩し』に対する警戒心も強かったのではないでしょうか。

結果として、男の子の状況は一変し、あってはならぬ方向に至ります。

一目で病弱とわかる男の子が、深夜、人形を片手に町中をうろうろしておれば、誰なりと声をかけ、警察に保護を求めるなど、いくらでも方策があったでしょうに、世間はやはり無関心で、見殺しにしてしまいました。

見終わった後の、なんともいえない罪悪感や無力感は、まさに本作が突きつける問題の要であり、私たちが日頃意識すべき課題に他なりません。

ルディやポールの真似は簡単にはできませんが、一つの事象について、ただ人情や善悪の観点からジャッジするのではなく、様々な立場の言い分を鑑みることで、支援する者と、それを必要とする者、両方にとってバランスの取れた解決策が見えてくるのではないでしょうか。

Close to Me

本作において、もっとも涙腺が爆発するのは、ルディの歌うClose to Meでしょう。

昔の8ミリ映像風に演出された場面は、彼らの愛と幸福を凝縮したような作りで、ルディ(=アラン・カミング)の歌唱と併せて、ただただ美しいとしか言いようがありません。

結果的に、このデモテープがハリウッドのクラブオーナーの目に留まり、歌手への道が開けるのですが、それも納得の演技です。

女性でもこれほど情感たっぷりに歌えるシンガーは稀ではないでしょうか。

私のところへ来て
世界が冷たく 空っぽに思えたら

私のところへ来て
抱きしめて欲しい時

私のところへ来て
温かい腕で守ってあげる

私のところへ来て
嵐を遮る楯になる

嘘なんかじゃない
なぜ分かってくれないの

愛してる 愛してる
あなたが必要
あなたが欲しい

愛してる 愛してる
あなたが必要
あなたが欲しい

いずこの世に限らず、犠牲になるのは『子供』です。

主張することも、選ぶことも、生活を立てることもできず、大人の勝手な都合に振り回されて、傷つく。

甘ったるい邦題とは裏腹に、苦々しさが残る。美しくも重い映画です。

*

最初、「えっ」と思うけど、だんだんキュートに見えてくる、アラン・カミングの魅力(^^)

この作品は吹替えも秀逸です。

私は富山敬や永井一郎や内海賢二の世代ですから、内田夕夜(=ルディ)と、てらそままさき(=ポール)、両氏の名前は初めて知ったのですが、お二方とも大変上手です。

ゲイ役といえば、妙にしなを作って、女言葉を強調する方もありますが、内田さんの演技はとても自然で、まったくいやらしさを感じません。それでいて温かさや気高さに溢れ、次の作品も観たい!と思わせる声優さんです。
てらそま氏も、一言一言が丁寧で、法律家の義心を感じさせる演技でした。愛の場面もムードたっぷりですしね♪

内海賢二師匠の亡き後、どなたが声優界を背負って立たれるのか──ここ数年のアイドル起用に超ブチ切れだった事もあり、すっかり希望も無くしていたのですが、お二方の声の演技を聞いて、希望が湧いてきましたよ(*^^*)

DEATH NOTEで夜神ライトを演じた宮野真守もすごく上手ですけどね。(まだ笑うな……こらえるんだ……あと5秒……あと5秒で勝ちを宣言するぞ。ニア、お前の負けだ! のあたり、神業)

ウォールのPhoto : Music Box Films 『Any Day Now』

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