映画

暴力かSMか・共存する愛と支配 映画『愛の嵐』

2015年7月14日

※性的表現が含まれます。年若い方は閲覧にご注意ください。

今、こういう映画を制作することは絶対に不可能だろう。

ナチスの残党が口にする、

私は第三帝国に仕えたことを誇りに思う。再び生まれても同じことをするだろう。

という台詞。

強制収容所での支配と服従を通して育まれる愛。

異常な状況下での倒錯と快楽。

そして、上品な貴婦人と淫らな女の両面を見事に演じ分けるシャーロット・ランプリングのような女優。

全てがスキャンダラスで、性的、歴史的なタブーに彩られている。

けれども、どこか美しい。

こういう脚本と演出が可能なクリエイターはもちろん、それを体現できる女優も俳優も今の映画界には皆無だろう。

これは社会の良識に対する挑戦であり、倫理への反逆である――と言い切るのは容易いが、これも確かに男女の愛なのである。

*

ウィーンの高級ホテルで夜番のフロント係(『The night porter』が原題)を勤めるマックスは、元ナチス親衛隊であり、強制収容所に配属されていた。
そこで囚人の美少女ルチアに目をつけ、彼女が決して逆らえないのをいいことに性を教え込んでゆく。

・まだ性の何たるかも分からぬ少女を鏈で縛り付け、口の中に指を挿入するという・・

愛の嵐

・傷ついた少女の傷に下僕の如く口付けるマックス。

愛の嵐

やがてルチアも自らマックスを愛するようになる。

愛の嵐

終戦後、ウィーンのホテルで思いがけなく再会した時、ルチアは有名指揮者の妻として裕福な暮らしを送っていた。
収容所暮らしなど微塵も感じさせない、エレガントなスタイル。

愛の嵐

思いがけなくマックスに再会し、動揺するルチア。
一刻も早くこの場から立ち去ろうとするが、昔の思い出が彼女を引き留める。
突然、宿泊中の部屋に訪れたマックスとルチアは激しく抱き合う。

愛の嵐

映画史上に残る名場面。
ナチスの秘密クラブで、上半身裸にナチスの制服を身に着け、愛の歌を歌うルチア。
『愛の嵐』といえば、このショットです。

愛の嵐

歌の場面は23秒ぐらいから。


常人には、有名指揮者の妻で、社会的にも経済的にも申し分ない暮らしをしているルチアが、何を突然思い立ってマックスの元に転がり込んだのか、まったくもって理解不能。

だが、この歌詞を知れば、少し分かるような気がしないでもない。

私が愛するのは生きるため
そうでなければ楽しむためよ
たまには本気で愛することもあるわ
きっといいことがありそうな気がして

何が欲しいと聞かれれば
分からないと答えるだけ
いい時もあれば 悪い時もあるから

何が欲しいと聞かれたら
小さな幸せとでも言っておくわ

だってもし幸せすぎたら
悲しい昔が恋しくなってしまうから

一方、ナチス狩りから身を潜めて生きる元親衛隊たち。
「私は第三帝国に仕えたことを誇りに思う。再び生まれても同じことをするだろう」という台詞が私には一番衝撃的だった。
実際に、それを肯定しながら生き延びた者たちもあったのかもしれないが。

マックスは言う。「僕はあえてドブネズミの人生を選んだんだ(原題『ナイトポーター』の由縁)。夜、働くのには訳がある。光だよ。私には光が眩しいんだ」。

罪の意識から、もはや人々が明るく過ごす昼の世界には戻れない、いう気持ちでしょう。

たとえ裁きを逃れても、加害者の側にも良心の咎は一生残る、といったところ。

愛の嵐

愛の嵐

追っ手から逃れる為、アパートに立てこもるマックスとルチア。
だが、外からの食料補給も絶たれ、二人はたちまち飢えて苦しむ。
空腹に耐えきれず、自らの手を傷つけて血を舐めるルチア。
それをマックスが窘める中で、またも快楽を貪り合う。
ここまでくれば、死と性の極致。
渡辺淳一が喜びそうなシチュエーション(ちなみにシネマティク恋愛論 (集英社文庫)で『愛の嵐』のレビューを書いておられまス。
ainoarasi

愛の嵐

愛の嵐

もはや何所にも逃げ場はないと覚ったマックスとルチアは、深夜にアパートを抜け出し、川の向こうを目指すが・・
「私には光が眩しいんだ」と語っていたマックスが、最後には夜明けの光を目指して歩いて行く場面が非常に印象的。
どのみち、この世の何所にも救いはなく、ただ愛があるだけ・・という、幸福とも不幸ともいえない切ない幕切れ。

愛の嵐

暴力かSMか

恐らく何の予備知識もなく『愛の嵐』のポスターやパンフレットを見たら、「SM映画?」と思うかもしれない。

男が調教し、女は隷従する。

サディズムとマゾヒズムといえば確かにそうだけれども、それだけでは説明のつかない部分がある。

なぜなら、時にマックスとルチアの力関係は逆転するからだ。

最初は有無を言わせぬ暴力によってルチアの身も心も支配していたはずが、いつの間にかルチアの愛の奴隷となり、女の足元に跪く。

女を自分の手元に引き留める為なら、仲間に背くことも厭わない。

ついには食料を絶たれ、命を脅かされても、女の愛を乞い続ける。

『暴力と支配でしか愛を表現できない男』――というと、女性には甚だ不快感しか催さないだろう。

だけども、そういう男は現代にもたくさん存在するだろうし、また、その悪癖を知って離れられない女も同じ数だけ居るのだろうと思う。

暴力以外の優しさに期待して。

あるいは当人にしか分からぬ心の繋がりから。

映画『愛の嵐』でも、マックスは女をびしばし殴った後に「愛してる」などと呟く。

そして、これほど酷い目にあっても、ルチアは別れない。

常人には決して理解できない感覚だ。

そんな二人を強固に結びつけている理由が「快楽」としたら、ますますもって良識ある人間には想像も及ばない。

でも、これも一つの男女の愛の形なのですよ――と言われたら、納得せざるを得ないというか。

そもそも、何をもって「愛」と定義づけるのか、暴力にもSMにも本当に無縁な私には、ただただポカンと映像に見入るより他ないのである。

きっとこの作品も、解る人には解るのだろう。

そもそも『解釈』を目的としたものではなく、『ありのままを描く』のが作品の趣旨かもしれない。

何にせよ、二度も、三度も、繰り返し見たくなる映画ではない。

これが史実にせよ、何にせよ、あまりに悲しくなる作品だからだ。


同性愛のバレエダンサー

これも印象に残る場面。
ナチス親衛隊が見守る中、ほとんど全裸の状態で男性がバレエを踊る。
あの異常な状況が自らの芸術の糧となる。
これも解る人にしか解らない演出。


アイテム

これは本当にマニア向けです。タイトルに「無修正」が入ると、売り上げも倍増するようです。
興味のある方は「the night porter」で検索してください。YouTubeにもいろいろアップされています。

渡辺淳一もこの頃のエッセーは本当に良かったんだよ。「愛の嵐」「旅情」などクラシックな恋愛映画のレビューが収録されています。

が。

「ローマの休日」で、「アパートの部屋で男女が一夜を過ごして、何も無いなど有り得ない」とグレゴリー・ペックの柔腰を断罪しておられたのはいただけないですよ。
皆が皆、「やりたい」だけではなかろうに。。。(アンタと一緒にすな、って)

この箇所さえなければ、おすすめの一冊です。

こういう見方もあるのかな・・と、通常の映画評論とは一風違ったレビューを楽しめます。

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