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愛とは、問題そのものである / 人間関係とは問題解決のプロセス

2006年11月18日

久々に、HPの資料ファイルを読み返して思ったのだけど、夫婦関係でも、親子関係でも、何か問題があれば、「自分たちはもうダメだ」と悩むケースが多いですよね。

たとえば、夫と言い争いばかりするから、私たち夫婦はもうダメだ、とか。

子供が言うことを聞かなくて、怒ってばっかりだから、私の子育て(=親子関係)は悪いのだ、とか。

しかし、人間関係とは、問題解決のプロセスではなかったか。

密に擦り合うからこそ、そこに摩擦が生じるのであって、近所の見知らぬおじさんとは、問題など生じようがないであろうに。

誰も彼もが――もちろん、私もそうだけど――『問題』=『悪者』と考えすぎではなかろうか。

正面から、相手を見、相手と接するから、見たくないものも見えるし、気に入らないこともわいてくる。

見ていない相手、接していない相手に対しては、何の不満もなくて当たり前なのだ。

いわゆる、「隣の旦那は男前」の原理である。

心理学者の加藤先生も繰り返しおっしゃってるけれど、『「私たちには何の問題もありません」と言い切る関係こそ問題なのだ』というのが真実で、ぶつかっては波が生じ、収めてはまた波が砕けるのは、その関係が生きている証拠なのである。

本当に愛が無いのなら、そこに会話はないし、不満もない。

衝突とは、人間同士の絡みそのものであるし、不満とは、相手に対する執着の現れだからだ。

ゆえに、「問題、問題」と、悪い面ばかりに目を向け、問題を揉み消そうとすれば、やがてその間系は死んでしまう。揉み消すということは、即ち、「無視」「諦め」であるからだ。

パートナーとしての相手に期待する限り、相手への不満は続くし、物事を収めようとすれば、そこに損得の火花が散る。

それを人は「問題」と言うけれど、改善の努力がある限り、プロセスの一つに過ぎないのではないだろうか。

恋愛において、「この関係、もう終わってるね」というケースは、たいてい、女がイエスマンで、男が何も言ってこない。
それを、女の子は、「大事にされている、愛されている」と思い込んでしまうのだけれど、二人の関係が本当に生きている限り、女は堂々とノーと言えるし、男も訳の分からない屁理屈を返して、女を困らせるものだ。

夫婦も、そう。

親子だって、そうだ。

生きている限り、上手く行かなくて、当たり前なのだ。

問題が目に見ている限り、そこにはプロセスがあり、救いがある。

「うちの子には問題があるから、もうダメだ」なんて、悲観することはない。

問題視されない問題児こそ、一番の問題なのだから。

問題の悪いところを見るより、それから先の良い結果を見つめて、頑張って欲しい。

私なんかは、何も問題が無いことよりも、自分が「問題を把握している」ことに、安心を感じる方なのだから。

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